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死をどのようにとらえるか?

2022年6月06日2022年6月06日

【所沢市斎場】大切な人の死は、自分が死ぬことより恐い。

フランスの哲学者、ウラジーミル・ジャンケレヴィッチ(1903~85年)は、死を論じる基準を、一人称、二人称、三人称という人称態によって整理しています。
例えば、日本では 2011年に125万人以上が亡くなったという客観的なデータを示されても、
たいていの人は、その事実に対して、「悲しい」「さびしい」といった感情を持たないでしょう。

それでは、大切な人の死はどうでしょうか。
客観視できる三人称の死とは異なり、大切な人を亡くした場合には、悲しみや喪失感、孤独感など、さまざまな思いが湧きおこります。
大切な人の死は、遺された人にとって、その人を失ったという事実だけでなく、その人との双方向の関係もなくなったという二重の喪失を意味します。

もちろん、「亡くなった人は見守ってくれている」「心の中に生きている」といった感覚を持つ人は多いでしょう。
その意味では、大切な人が亡くなっても、関係性は失われないと言えますが、相手が亡くなっている以上、双方向に結ばれた関係ではありません。
つまり、今までの双方向の関係は死とともに失われ、遺された人は、故人との関係性を再構築するのです。
「わたしが2006年に約1000人を対象におこなった調査では、「一人称の死(わたしの 死)」と「二人称の死(大切な人の死)」とでは、
老若男女を問わず、「大切な人の死」のほう が恐いという結果が出ています。
死について考えるとき、わたしたちは、「自分が死ぬ」ということを前提にして発想しがちですが、
遺される人にとっての問題を考えることがとても大切なのに、それが見過ごされているのが実態です。

【所沢市斎場】核家族化により広まった「二人称の死」

しかし、「二人称の死」という流念は、昔からあったわけではありません。
ヨーロッパにおいて、1000年にわたる死の様相の変遷を研究したフランスの歴史学者、フィリップ・アリエス(1914~84年)は、著書『死を前にした人間」の中で、
「中世や近世までは、喪の悲しみは共同体全体のものであり、共同体に所属する一人ひとりの悲しみはそれほど大きくなかった」と指摘しています。
ところが19世紀以降、人々が家族に愛情を注ぐようになると、このきずなが死によって絶たれることで、二人称の人の死がとても大きな苦痛になったというのです。

つまり、二人称の死が耐え難いほどの苦しみを伴うようになったのは、核家族化が進む12世紀以降になってからなのだと、アリエスは主張しています。
別の表現をすれば、人々の生活が豊かになり、重視される家族の機能が変化したことで、二人称の死が三人称の死と異なる意味合いを持つようになったとも言えます。

【所沢市斎場】産業化に伴って進む「核家族化」

「家族には、生活を保持するために生産や労働に従事し(生産・労働機能)、子どもを産み育て教育し(養育・教育機能)、
病気になったり、年老いて働けなくなり、介護を必要とするようになったりした場合には、互いに助け合う(扶助機能)といった生活保持機能がありますが、
日本でも昨今では、こうした機能より、愛情や精神的安らぎの場としての機能がより重視されるようになっています。

しかも産業化に伴って、核家族化が進んでいます。
その結果、二人称である家族の死が、遺された人に大きな衝撃を与えるようになったのです。
「日本では、かつては、お葬式は社会的な意味合いが強い儀礼でした。
葬儀には、社会に故人の死を広く知らしめると同時に、世代交代のお披露目という役割がありましたから、
立派な葬儀を出すことは故人のためというよりは、イエが繁栄していることの証拠でもあったのです。

ところがバブル経済崩壊後、仕事関係など義理でお葬式に参加する人が少なくなり、地域の結びつきも薄れて、
お葬式が家族や親族を中心としたプライベートな儀礼となっています。
「遺族はお葬式が終われば、何事もなかったかのように日常生活に復帰することを社会から期待されますが、
その半面、心身に変調をきたしたり、家の中に引きこもって、生きる気力を失ったりする遺族も少なくありません。
多くの人にとっては三人称の死であっても、その人にとって大切な人の死は、とても大きな衝撃を受けることをわたしたちは認識する必要があります。

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