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死はだれのものか?

2022年6月06日2022年6月06日

【所沢市斎場】一人は死んでも”無”にはならない

「一人称(わたし)の死」について関心を寄せる風潮が1990年代以降、顕著になってきています。
それまでは、葬送やお墓をどうするかは遺された人が考える問題でしたが、 生前に自分の死後について考える人たちが増えてきたのです。
同様の動きは、欧米でも1960年代以降にみられます。

しかし、ここでひとつの疑問が生まれます。
死とは、自分自身の問題なのでしょうか、それとも遺される人の問題なのでしょうか。

もちろん、死ぬのは本人ですから、当然、死は自分自身の問題です。
一方で、先ほど述べたように、遺される人にとっても大切な人の死は人生の一大事ですから、死について考えるときには、両方の立場からとらえる必要があるのです。

ところが、その両者の間には、死についてのとらえ方に大きな違いがあります。
自分の問題として死をとらえたときと、大切な人が亡くなるという想定をして死を考えたときとでは、死のイメージは異なるのです。

【所沢市斎場】「死んだら無」という死生観を持つ日本人が増加している

例えば、特定の宗教や宗派の信仰を持つ人が少なくなり、「死んだら無」という死生観を持つ日本人が多くなったと指摘する説があります。
「わたしの死」を想定した場合に、「死んだら無」という意識を持つ人でも、「大切な人の死」を「死んだら無」だとは思わないのです。
こうした、一見矛盾した意識は、「わたしのお 葬式は不要だけれど、大切な人が亡くなったときにはお葬式をする」とか、
「わたしはお墓はいらないけれど、大切な人のお墓参りはする」といった行動にも表れています。
「つまり、自分の葬送について「死んだら無」という前提で思考すると、当然、「お葬式はしなくていい」「家族だけでこぢんまりとしてほしい」、
あるいは「お墓はいらない」「海に流してくれればいい」などとなります。

しかし遺される人の立場になった場合、その人を大切だと思っていれば、「死んだら無」だとは思えません。
大切な人だからこそ、遺された人たちは本人の意思を尊重するのですが、お葬式をしない、お墓もない、となれば、
死の悲しみを共有する仲間や場もないまま、死を受容できないでいる人もいます。

数年前、「千の風になって」という歌がはやりましたが、亡くなった人が千の風になって空を吹きわたっているというイメージが、わたしたちの心にとても響いたのだと思います。
わたしたちの多くは、自分が死んだら無になると思う反面、亡くなった大切な人は自分をいつでも見守ってくれているという二重の矛盾した感覚を持っているのです。

また、お葬式が終わって一段落した後、大切な人との最後のお別れがこれでよかったのだろうか、もっと他によい治療方法があったのではないだろうか、と自問自答する遺族もいます。
介護や看取り、お葬式のやり方など、故人によかれと思ってしたことに対して、家族や親族から批判され、関係がぎくしゃくするケースも珍しくありません。
「遺された人たちは、大切な人との死別の悲しみだけでなく、こうしたさまざまなトラブルやストレスに直面し、
なかには、家の中にひきこもってしまったり、抑うつ状態になったりする こともあります。

別コラムにて予期悲嘆の話をしましたが、遺された人たちは死別後も、さらにストレスと闘い続けなければならないのです。
埼玉医科大学国際医療センターの精神腫瘍科には、がんで家族を亡くした人のための「遺族外来」が2006年に開設されましたが、
こうした遺族ケアの重要性の認識が日本ではまだまだ低いのが現状です。

【所沢市斎場】宗教的儀礼には遺族の心を癒す効果もある

大切な人を喪失した悲しみや故人の思い出を語ることは、遺された人にとってとても大切なことです。
仏式のお葬式では、亡くなって一周忌までに、初七日、四十九日な どの法要があります。
本来は、四十九日まで、7日ごとに法要をおこないますが、昨今では初七日と四十九日だけをおこなう遺族がほとんどです。
その初七日や四十九日も簡略化され、火葬が終わった後、同日に初七日を済ませることが多くなりました。

かつてのように、親戚一同が同じ地域に住んでいるケースが少なくなりましたし、現代人は忙しいですから、死者より生者の都合が優先されるという風潮もあります。
親戚がお葬式の1週間後に再び一堂に会するのは、時間的にも経済的にも負担が大きいことが、初七日の簡略化の背景にあるのでしょう。
「年忌法要は一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌、十七回忌、二十三回忌、二十七回忌、三十三回忌、五十回忌と続きますが、
一般的には三十三回忌か五十回忌で「弔い上げ」とすることが多いようです。

とはいえ、昨今では、七回忌か十三回忌で弔い上げとするなど、年忌法要の回数も減少する傾向にあります。
長寿化(死亡年齢の高齢化)や核家族化、親戚づきあいの減少などの影響で、死後20年が経過すると、
故人と親しくつきあいのあった人たちがほとんどいないという事情もあるのでしょう。
信仰がなければ、儀礼的な法要に意味を見出さない人が少なくないのは当然かもしれません。

しかし、大切な人が亡くなって数年以内には、親戚や親しい人たちが集うこうした法事は、 グリーフケアに大きな効用があるはずです。
年忌法要はともかく、祥月命日(故人の亡 くなった当月当日)や月命日(毎月の亡くなった日にち)にお墓参りをしたり、
お経をあげたりして故人を偲ぶという習慣は、信仰の有無に関わらず、遺族にとってはまさしくグリーフワ ークであるはずです。
もちろん、わたしたちはいつでもどんな場所でも故人を偲び、思い出すことは可能ですが、日常生活のそうした機会が、遺された人にとって生きる原動力になるにちがいありません。

もちろん、キリスト教にも仏教の法事にあたるものはあります。
故人の死後、3日目、7日目、30日目といった節目に、教会で追悼ミサをおこなうほか、1年後の昇天日(命日)に盛大に死者祈念のミサをおこないます。
それ以降は、仏教のように決まった習慣はありませんが、10年目、20年目にミサをおこなう家族もいます。
こうしたミサは宗教的な意味合いからだけでなく、その人を亡くした悲しみを共有する人たちが集うことは、遺された人たちにとって、とても重要な時間であるのは、仏教でもキリスト教でも同様です。

【所沢市斎場】見過ごされがちな遺される側の視点

またライフスタイルの変容で、仏壇を置かない家や仏間のない家が増えました。
わたしが2009年におこなった調査では、子どものころに自宅に仏壇があった人は69.7%でしたが、 現在の自宅に仏壇のある人は46.9%と半数に満たない状況でした。
かつては、仏間の鴨居にご先祖さまたちの写真を飾っていましたが、こうした光景も過去のものとなりつつあります。

仏壇の前に朝夕座り、手を合わせる行為は、死者と対峙する大切な時間であり、先祖の写真に囲まれて生活することで、
亡くなった人が見守ってくれているという実感を、遺された人たちは得られたはずです。
こうした習慣は、大切な人の死を受容し、死別の悲しみを和らげ、死者と共存していくための装置であり、
日常生活の中で、グリーフワークがなされていたと言ってもよいでしょう。

もちろん、命日や年忌の法要、仏壇には仏教的に意味がありますが、わたしは、遺された人のグリーフワークになるという効用にもっと注目するべきではないかと思います。
例えば、宗教色のないお葬式をした場合や、仏教以外の宗教を信仰している場合でも、故人と対峙できる仏壇に代わる小さな空間を家の中に設置したり、
節目節目に故人を偲び、思い出を語り合う機会をつくったりすることの意義を考えてもよいと思うのです。

さまざまな宗教が死後の世界について説いていますが、大切な人の死をどう受け止めるかと いう問題は、信仰のある人でも、必ずしも宗教が解決してくれるとは限りません。
なぜなら、 人は死んだらどうなるのかという問題は解決できても、「わたし」と大切な故人との関係やきずなをどう結び、
どのようにして死者と生き続けるかというのは、きわめて個人的な問題であるからです。
社会や家族、ライフスタイルが多様化し、故人の思び方も人それぞれに多様化している事実はありますが、
大切な人を亡くせば、激しい悲しみや喪失感、衝撃を受けるのは、どんな時代でもどんな人でも同じです。
「自分らしくどう逝くかという視点は、どう生きるかという問題を考えるうえでとても重要ですが、
同時に、遺された人たちが大切な人の死をどう受容していけるかという観点でも、発想のあり方を考える必要があると思うのです。
前者の視点が大きくクローズアップされ、遺される人の視点が見過ごされがちな昨今の状況だからこそ、
わたしたちは、グリーフワークの重要性について再認識しなければなりません。

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